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過去に発生した凄惨な凶悪事件をイメージして制作したといわれる映画「葛城事件」(2016年、主演・三浦友和)。
2013年に舞台「葛城事件」が上演されており、本作は映画版としての作品(監督脚本・赤堀雅秋)です。舞台「葛城事件」は、ある無差別殺傷事件をモチーフにした作品だったようですが、映画版は“様々な事件を調べて複合化した”と監督は語っています。
鑑賞前に前評判や寸評などを見聞きした範囲では、無差別殺傷事件に偏重があるストーリーを連想していましたが、映画版では事件よりもむしろ、家族の中で起こる事象にスポットが当てられているように感じました。
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「葛城事件」に観る、どこにでもある家族に潜む心の亀裂
本作を鑑賞してまず感じたことのひとつが、登場人物(=キャスト)の構成に違和感がなく、ファーストインプレッションを受け入れられたことです。
主要な登場人物は5人ですが、それぞれの人物設定とキャストがシンクロし、導入部分で拒絶することなく入り込めました。作品を鑑賞するにあたって、これは重要なファクターだと改めて感じます。
とりわけ、一家の主である父・葛城清を演じる三浦友和の迫真の演技に惹きつけられます。個人的に好きな俳優ですが、今までに観た紳士的な役どころとは大きく異なり、独善的かつ抑圧的な父親を見事に演じています。全般的に清の独善的なシーンが続きますが、そんな中でも中華料理屋での1シーンはある意味見もの。
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キャスティングについて強いていうならば、死刑廃止を訴える星野順子(田中麗奈)の存在でしょうか。本作を成立させる上では必要な人物設定なのかもしれませんが、個人的には、最後に埋められたピースのような感覚を受けました。
理想の家族像を追い求め、それに近づけようとするあまり、抑圧的に接してしまう父・清。その標的になってしまうのが、引きこもりの次男・稔(若葉竜也)であり、次男をかばう妻・伸子(南果歩)。そして、従順な資質から抑圧的な支配にあらがうことができない長男・保(新井浩文)。
抑圧されるということは自己主張ができず、鬱憤が蓄積されていくことにつながります。家族であれ組織であれ、いずれも同じことがいえますが、抑圧からの逃げ道や、ストレスのはけ口があるのか──。これは“均衡を保てるか”、“亀裂が生じて崩壊するか”の重要な分岐点です。
引き込まれるシーン構成
一般的に、回顧シーンなどを間にはさむ構成はよくありますが、本作では、シーンごとに現在と過去を何度も行ったり来たりします。開始から最後までを時系列では進行させていません。
これを否定的にみる意見も当然あると思いますが、この時系列の入れ替えが、頭から時系列で描写するよりもむしろ、展開に引き込まれる感覚を受けました。個人的には、技巧的であると感じます。
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記憶に残るあと味の悪さ
本作を観たあと確実に残るものは“あと味の悪さ”です。そして、感情は沈んでいくでしょう。
決して映像の中だけの話ではなく、いつ自分の身のまわりで起きてもおかしくないような題材でもあります。
マイナスに作用することがことごとく連鎖し、悪循環がここまでハマってしまうと、感情をえぐられます。そして、記憶にも深く刻まれます。
この感覚に陥った時点で、“本作を受け入れたことになるのだろう”と感じました。
written by 空リュウ
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