そら流│小説・本

【ビジネス書】ロバート・キヨサキ「金持ち父さん貧乏父さん」を考察

金持ち父さん貧乏父さん-解説考察(要約/解説)

投資家ロバート・キヨサキの著書「金持ち父さん貧乏父さん」(初版2000年刊行)。本作は、全世界で3,000万部を突破した大ベストセラーのビジネス書として広く知られています。

日系四世のロバート・キヨサキは、投資家でありビジネスも成功させた実業家。公認会計士の妻との共著で本作を出版しています。

できるだけ若いときに読んだほうがいいといわれる一冊ですが、著者が啓発する「お金に対する考え方」は一般的な観念を覆すインパクトがあります。ただ、個人的には、必ずしもすべてを受け入れる必要はなく、取捨して消化することで個々の良作となり得ると考えます。

金持ち父さんが教える「お金を自分のために働かせる方法」とは

本作は著者の幼少期のエピソードをはさみながら、お金に対する考え方を啓蒙しています。挿入されているエピソードは、金持ちの考え方を“金持ち父さん側の流儀”とし、中流以下の人の考え方を“貧乏父さん側の流儀”としてわかりやすい表現で掲示しています。

金持ち父さんは友人マイクの父親、貧乏父さんは実の父親という設定は、読み手に対する訴求力としてこのうえない効果を生んでいます。

「お金のために働くのではなく、お金を自分のために働かせるのだ」という掲示をどう解釈するかで、本作の評価はまったく異なるものになるでしょう。

以下は作中の描写を引用しつつ、金持ち父さんの持論を私見で考察しています。

ラットレースから抜け出すために

金持ち父さん貧乏父さん-解説考察(要約/解説)

本作で頻出するキーワード「ラットレース」。貧乏父さん側を形用しているワードですが、いくつか登場するワードの中でももっとも記憶に残るもののひとつ。

ラットレースとは、いわゆる“会社のために”働き、“利益を生まない”資産(負債)の支払いに日々追われ、あたかもそれが人生のセオリーであると思い込んで生活し続けている状態を指しています。

「朝起きて、仕事に行き、請求書を支払う、また朝起きて、仕事に行き、請求書を支払う……この繰り返しだ。そのあとの彼らの人生はずっと恐怖と欲望という二つの感情に走らされ続ける。そういう人はたとえお金を多くもらえるようになっても、支出が増えるだけでパターンそのものは決して変わらない。これが、私が『ラットレース』と呼んでいるものなんだ」

「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房 P67抜粋

ラットレースから抜け出すためには、頭をつかってお金を生み出す方法を考えないといけないと金持ち父さんは語っています。また、金持ちになりたければ、お金について勉強しないとお金は出ていくばかりだ、とも。

資産と負債の違いを知る

金持ち父さん貧乏父さん-解説考察(要約/解説)

本作で金持ち父さんが教える“一般的な観念との決定的な差異”ともいえるのが、「資産と負債の違いを知る」という訓示です。

大方はまず金持ち父さんのこの着眼点にインパクトを受けるでしょう。(一般的な観念で)資産だと思って購入したものが実はそれは資産ではない、と指摘されれば当然です。

金持ちは資産を手に入れる。中流以下の人たちは負債を手に入れ、資産だと思いこむ

「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房 P92抜粋

作中では、数字の入っていないシンプルな損益計算書と貸借対照表を例として挙げ、金持ち父さんの持論を展開しています。

端的に示した要点としては以下がもっともわかりやすい一文。

資産は私のポケットにお金を入れてくれる

負債は私のポケットからお金をとっていく

「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房 P96抜粋

利益を生むものが資産、単純に支出でしかないものは家であろうが車であろうがすべて負債。逆に、同じ不動産でも損益計算書の売上高として計上できる(利益を生む)不動産の購入などは資産という扱いです。

仮に出世して収入が増えたとしても、そのぶん支払うべき所得税が増え、さらにクレジットカードなどの支出も増加すれば、それは本作では“貧乏父さん”ということになります。

一方、金持ちになるためには、資産と負債の違いを知り、支出を抑えながら(利益を生む)資産に投資することが最善の道だと語られています。

自分のビジネス(本当の資産)を持つ

金持ち父さん貧乏父さん-解説考察(要約/解説)

中流以下の人の大半が「余裕がないから危険を冒せない」という理由でいまの仕事にしがみついているしかない、という例えは至極もっともです。

金持ち父さんは「収入のあるいまの仕事を続けつつも、利益を生む“本当の資産”を得るために、“自分のビジネス”を築くべきだ」といっています。

「自分のビジネス」とは、たとえば株式投資であり、不動産投資、または著作権ビジネスなどの権利収入など、自分がその場にいなくても利益を生み出すビジネスを指しています。

つまり、いまの仕事で蓄えたお金で負債(利益を生まないもの)を買う前に、まずは「自分のビジネスに投資し、その自分のビジネスから得た利益で(キャッシュフローが潤ってきたときに初めて)ご褒美としてぜいたく品(車など)を買うべきだ」というのが金持ち父さんの教えです。

中流以下の人は「自分のビジネスへの投資は危険が多すぎる」という理由で敬遠しがちだと指摘しています。しかし、危険なのは投資そのものではなく、「お金に関する知識(ファイナンシャル・インテリジェンス)が不足していることが危険なのだ」と、作中で金持ち父さんは一貫して持論を展開しています。

ファイナンシャル・インテリジェンスを学ぶ

金持ち父さん貧乏父さん-解説考察(要約/解説)

前述のとおり、金持ち父さんがとりわけ強調しているのが「ファイナンシャル・インテリジェンスを身につけなさい」という点です。これはつまり、「お金に関する知識を習得しなさい」ということ。ひいては、それがラットレースから抜け出すことにつながると語っています。

金持ち父さんがいうには、ファイナンシャル・インテリジェンスは4つの専門的分野の知識から成り立っているとのこと。

  1. 会計力……ファイナンシャル・リテラシー(お金に関する読み書き能力)。数字を読む力。
  2. 投資力……投資(お金がお金を作り出す科学)を理解し、戦略を立てる力。
  3. 市場の理解力……需要と供給の関係を理解し、チャンスをつかむ力。
  4. 法律力……会計や会社に関する法律、国や自治体の法律に精通していること。

要約して羅列するとむずかしく感じますが、これらは、「お金に対してより多くの選択肢をもって合法的かつ合理的に対処できるようになりなさい」という掲示。それは目の前に巡ってきたチャンスをいかにつかみとるかということでもあり、自分の経済状態を好転させるためには何が必要かを考えることでもあり、お金に関する問題を解決するために創造力を働かせることでもあります。

ファイナンシャル・インテリジェンスを習得してラットレースから抜け出したいと考えている人は、失敗を恐れてはいけないというのが金持ち父さんの持論です。失敗(損失)は必然であり、失敗から多くを学ぶという、いわば啓蒙としては至極当然な教えにもふれています。

失敗から学ぶ意思がない人や損失を恐れる人、またはリスクをとりたくない人は、金持ち父さんの教えを実践する必要はないでしょう。個人的にはそれらを否定するつもりはありませんし、むしろ、共感するところがない人にとっては、本作でいう貧乏父さんの道を歩んだほうが幸いなのかもしれません。

written by 空リュウ

【小説】我孫子武丸「殺戮にいたる病」を読んだ感想・私見(考察)

我孫子武丸-殺戮にいたる病-感想-考察-解説

1992年に刊行された我孫子武丸「殺戮にいたる病」(新装版2017年刊行)。

本作は叙述トリックの傑作として必ず挙げられるほど名高い作品です。

本作の叙述トリックは巧妙なプロットをもとに構成されており、ミスリードしたままラストまで読み進めることは必至。そして、真相が明かされた瞬間、おそらく思考は停止するでしょう。

また本作を語るうえで避けられないのが、サイコキラーが次から次へと猟奇的殺人に手を染めていく過程で、その描写があまりにグロテスクなこと。叙述トリック、グロ描写、両面においてかなりの衝撃を受ける作品であることは間違いありません。

以下は、「殺戮にいたる病」の叙述トリックを推考するため、あくまで読了前提としてネタバレで考察しています。

巧妙に人物誤認のミスリードを誘う傑作「殺戮にいたる病」

本作の構成として、蒲生稔、蒲生雅子、樋口の三者視点でストーリーが展開されていますが、このうち稔視点と雅子視点の相関が叙述トリックの肝となっています。

そのうち稔の人物像については、冒頭にエピローグを挿入し、稔=殺人犯である事実を明かしたうえでサイコパスな雰囲気を漂わせています。本作の心臓ともいうべき稔という人物を、とりわけ特異な存在として読み手に印象づけようとする作為がうかがえます。

ほとんどの読み手は、第一章の雅子視点の描写によって、冒頭から「蒲生稔=雅子の息子」とミスリードするはずです。ここに本作の叙述トリックである人物誤認トリックが仕掛けられています。

樋口視点のパートは全体を俯瞰する役割を担っているので、本作の叙述トリックとなっている蒲生家の人物誤認とは直接関係していません。

蒲生家の人物誤認(1) 誤「稔=息子」 / 正「稔=夫」

我孫子武丸-殺戮にいたる病-感想-考察-解説

前述のとおり、本作で読み手がミスリードする人物誤認トリック、それは「稔=雅子の息子」という先入観。これが、正しくは「稔=雅子の夫」です。

読み手の多くは稔=大学生と誤認しますが、稔が大学関係者であることをほのめかしている伏線は作中にいくつか張られています。

稔が試験のために大学へ出かけたのが昼食を終えてからだったので、雅子は二時頃になって息子の部屋へ入った。

講談社文庫 新装版 第二章 3 二月・雅子 P51抜粋

人物誤認のミスリードをしている場合、“大学生の息子が大学へ出かけたあと、雅子は息子の部屋へ入った”と解釈するはずです。作中の事実は、“大学助教授の夫・稔が大学へ出かけたあと、雅子は息子の部屋へ入った”です。

「稔さん。大学はどうしたの?」
「……ちょっと熱っぽいから。どうせ授業は一つしかなかったし。前期は皆勤した講義だしね、一回くらい休講しても構わないさ」

講談社文庫 新装版 第三章 2 前年~一月・稔 P70抜粋

同じく人物誤認のミスリードでこの会話を解釈すると、“雅子”と“大学生の稔(息子)”の会話になりますが、実際は“容子(稔の母)”と“大学助教授の稔(雅子の夫)”の会話です。学生の側からも解釈できる内容ですが、“休講する”という立ち位置は教鞭をとる側の人間であることをほのめかしています。

「オジンってのを訂正したら、考えてやってもいい」
「分かったわ──お・じ・さ・ま」
 彼は思わず吹き出した。面白い娘だ。

講談社文庫 新装版 第三章 2 前年~一月・稔 P78抜粋

おそらく多くの読み手がここで違和感を覚えるはずです。ミスリードしている場合、少女から見れば大学生の稔はオッサンというという見立てに不自然さはありません。しかし、大学助教授の稔は43歳なので、少女の発した言葉はきわめて自然といえます。ミスリードに気づくかどうかは別として、この描写は伏線ではないかと推察する読み手は少なからずいるはずです。

蒲生家の人物誤認(2) 誤「母=雅子」 / 正「母=容子」

我孫子武丸-殺戮にいたる病-感想-考察-解説

雅子視点のパートは、“稔=雅子の息子”という人物誤認のミスリード描写が主となっていますが、それとは別に、“母=義母(容子)”の存在をほのめかす伏線もいくつか存在します。

そこに違和感を覚えれば、人物を誤認していることに気づけるかもしれません。

夫の給料は、贅沢を言わないかぎり、彼女が働きに出る必要のないほどはあったし、彼がもともと両親と住んでいた一軒家も、五年前に義父が他界してからは夫の名義となっている。

講談社文庫 新装版 第一章 1 二月・雅子 P12抜粋

雅子視点で夫の両親との同居について描写されていることから、義父の他界が掲示されているものの、義母については明示されていません。これはつまり、義母は存命で同居していることを意味します。

母と娘と一緒に作ったおせちを食べ、年賀状を見たりテレビを見たりしているうちにもう夕食の時間だ。

講談社文庫 新装版 第四章 3 二月・雅子 P114抜粋

三人称描写として見過ごしがちですが、この一文は雅子視点の伏線です。「母と娘と」という描写は、雅子視点からみると、「義母・容子」と「娘・愛」と“三人でおせちを作った”ということになります。

雅子はみんなが揃ったある日の夕食で、まず娘の愛に、それとなく旅行の計画を持ち出した。
「ねえ、愛ちゃん。温泉なんか、行きたいわねえ」
「そうねえ」と娘はさほど乗り気でもなさそうな返事。
「お母さんと行けばいい」とむしゃむしゃご飯を噛みながら夫が口を挟む。

講談社文庫 新装版 第五章 3 二月・雅子 P146抜粋

一見、夫が娘に投げかけた言葉のようにみえますが、実際は夫が妻に対して投げかけた言葉。夫視点の“お母さん”は、同居している「実母・容子」を指すことになります。

この人物誤認トリックを仕掛けるために、ラストまで明かされない人物名が二人存在します。それが、「実母・容子」と「長男・信一」です。

蒲生家の人物誤認(3) 「息子=長男・信一」

我孫子武丸-殺戮にいたる病-感想-考察-解説

三者視点のうち、稔視点のパートのみ時系列が先になっています。これは雅子が息子(長男・信一)に対して不審を抱いていることを描写し、読み手をミスリードさせるためのプロットによるもの。

長男・信一は、(時系列が先の)稔の所業に気づき、独自に追跡をはじめています。雅子視点のパートは、この信一の一連の追跡や仕草に対して雅子が疑惑を抱いているという役割を担い、巧妙にミスリードを誘っています。

長男・信一の部屋にあった黒いビニール袋や8ミリビデオは、いずれも信一が夫・稔の所業を追跡して発見したものです。

「おい! その人に見せてやってくれ」野本が声をかけると、担架を運んでいた男達は立ち止まり、死体を覆っていた毛布をめくって見せた。女は倒れこむように担架にしがみつくと、再び大声で泣き始めた。
樋口は後ろから近づき、女の肩に手をかけると、訊ねた。
「……あんたの、息子さんなんだね?」
返事はなかったが、女は何度も頷いているようだった。

講談社文庫 新装版 第十章 10 二十九日午後十一時二十五分・樋口 P340抜粋

ラストの章の樋口視点のパートで描写される、殺害された息子というのは、つまり長男・信一です。ミスリードしている読み手は、“雅子の息子である稔は逃亡している”と人物誤認しているので、混乱をきたしているはずです。

いうまでもなく、ミスリードしている場合、本作ラストの“朝刊一面トップ”のテキストによってすべてを察することになります。しかし、前述のとおり、おそらく何がどうなっているのか理解できないまましばらく思考は停止するでしょう。そして人物誤認トリックに気づいた瞬間、そのミスリード感に衝撃を受けるはずです。

人物誤認していたイメージをリセットするためには、「稔=夫」「息子=信一」「母(お母さん)=容子」をふまえて再読すれば、すべて消化できるでしょう。そして同時に本作のプロットの精巧さにも驚嘆するはずです。

written by 空リュウ

新装版 殺戮にいたる病 (講談社文庫) 我孫子 武丸
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【小説】綾辻行人「水車館の殺人」を読んだ感想・私見(考察)

綾辻行人-水車館の殺人-感想・考察

1988年に刊行された綾辻行人「水車館の殺人」。

鮮烈なインパクトを与えたデビュー作「十角館の殺人」の流れを受けた“館シリーズ”の第2作。講談社文庫(新装改訂版)のあとがきで著者が語っていますが、“館シリーズ”という長編連作のコンセプトを思いついたのは本作執筆時だったようです。

また、本作「水車館の殺人」は、館シリーズ前作「十角館の殺人」のような一発大ネタ勝負ではなく、“論理的に真相を導き出すことが可能な本格ミステリ”に挑んで執筆された作品とのこと。

なるほど、“過去”の章の地の文が三人称であるのに対し、“現在”の章が藤沼紀一視点の一人称で描写されていることからも、伏線があらゆる箇所に用意されているのだろうという匂いを感じます。

以下は、作中に巧みに張り巡らされた「水車館の殺人」の伏線を推察するため、読了前提のネタバレで考察しています。

精巧なプロットによって成り立つ王道ミステリ「水車館の殺人」

「十角館の殺人」が“島”と“本土”という物理的な隔たりがある構図であるのに対し、本作「水車館の殺人」は“現在”と“過去”という時空を隔てた構図。

十角館に続き、特殊な建築物を手がける中村青司によって設計された「水車館」が本作の舞台です。現在と過去いずれも水車館の中でストーリーが展開されているため、クローズドサークルに近い設定となっています(厳密には外界とは遮断されていない)。

また、館シリーズ前作「十角館の殺人」が現代と違和感のない世界観だったのに対し、本作は、水車のある洋館、白い仮面をつけた当主、半幽閉状態の少女、コレクションされた名画など、ゴシック感がひしひしと伝わってくる世界観で描写されています。

被疑者・古川恒仁の消失に潜む伏線

綾辻行人-水車館の殺人-感想・考察

過去の章は、現在の章から1年前の時空。プロローグで、切断された焼死体が発見されていることから、過去水車館で殺人事件が発生していることをまずは読み手に掲示しています。

1年前(過去)のこの事件で古川恒仁が消失していている事実が本作トリックの根幹となり、現在の章で探偵役の島田が真相究明に奔走しています。

古川消失はハウダニットが先に立つトリックですが、合わせて、のちのちフーダニットにも直結してくる二重のトリックであることに気づかされます(後述)。

紀一視点の一人称“現在”に潜むトリック

綾辻行人-水車館の殺人-感想・考察

前述のとおり、“現在”の章が“過去”の章とは明らかに異なっているのが、紀一視点の一人称描写です。察しのいい読み手は、過去の範例から、一人称&仮面という設定に直感が働き、早々に犯人の目星をつけているかもしれません。

ただ、古川消失に端を発する一連のトリックを解き明かすのは容易ではないという感。本格ミステリに挑んだという書き手の本気度が垣間見えるプロットです。

仮にトリックに気づかずラストまで読み進めた場合は、“切断された焼死体の主と思われていた正木が、実は現在の時空でも生存していた、それも紀一になりすまして”という設定がサプライズとなり得ます。

一人称の描写については、かなりきわどい表現がいくつか存在します。以下はそのうちのひとつ、第一章“現在”の一人称(私=正木)の独白を引用したものですが、読み手を早い段階でミスリードへ誘おうとする作為を感じます。

命日と云えば、今日はあの家政婦、根岸文江が不幸な最期を遂げた日でもある。そして明日──九月二十九日は、そうだ、かつて藤沼一成の弟子であったあの男、正木慎吾がこの世から葬り去られた日……。

講談社文庫<新装改訂版> 第一章 現在 P36抜粋

ハウダニットとフーダニットを兼ねる二重トリック

綾辻行人-水車館の殺人-感想・考察

“古川の消失はどうやってなされたのか(ハウダニット)”を解き明かすと、同時に“誰が古川を殺害したのか(フーダニット)”がひも付いてきます。

第14章“現在”で探偵役の島田が推理しているとおり、そこには白い仮面の下に隠された「入れ替わり」と「二人一役」という二重のトリックが隠されていたことがわかります。

白い仮面という設定はどうしても某作の古典的トリックが脳裏にちらつくため、読み手もそこには何かがあるだろうということを察します。

一人称“私=正木”の伏線については、これも島田の推理にあるように、作中のいくつかの箇所に仕込まれています。ひとつは左手薬指の欠損であり、ひとつは色覚異常にふれる描写。

そして紀一視点の一人称“私”は正木であったことから、「二人一役」のトリックと、ここにもうひとつ「入れ替わり」が行われていたことが浮かび上がります。つまり、二重の入れ替わり(古川⇔正木、紀一⇔正木)です。このあたりのプロットが実に巧妙。

個人的には、本作の古典的なトリックと精巧なプロットは良好に消化できて好みです。ラストの着想については読み手の消化器に依存され、判断も分かれそうですが。

written by 空リュウ

水車館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫) 綾辻 行人
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【小説】綾辻行人「迷路館の殺人」を読んだ感想・私見(考察)

綾辻行人-迷路館の殺人-感想・考察

1988年に刊行された綾辻行人「迷路館の殺人」。

本作は綾辻行人作品でシリーズ化されている、“館シリーズ”の3作目にあたります。

本作の舞台は、同作家デビュー作「十角館の殺人」からの流れを受け、建築家・中村青司が手がけたとされる“迷路館”。

「十角館の殺人」はアガサ・クリスティー「そして誰もいなくなった」のオマージュ作品ですが、“クローズドサークル”と“見立て殺人”については、本作「迷路館の殺人」も同様のプロットを踏んでいます。くわえて、本作には作中作(“作中作中作”含む)を用いて新味をブレンドさせています。

そして、作中作では明かされていない真相に迫る巧妙な“叙述トリック”。

以下は、「迷路館の殺人」の作中で幾重にも張られている伏線を推考するため、あくまで読了前提としてネタバレで考察しています。

作中作の見立て殺人、緻密なプロットの力作「迷路館の殺人」

本作の根幹となっているプロット“作中作”は、作中でいう鹿谷門実のデビュー作「迷路館の殺人」です。同作は鹿谷自身が渦中の人物として巻き込まれた連続殺人事件を題材にしたもの。

推理作家・宮垣葉太郎邸“迷路館”で起こった連続殺人事件は、宮垣に招待された作家4人(と秘書)が被害者となった事件ですが、この4人を遺産相続の資格対象者とした“創作コンテスト”が事の発端となっています。これを基として、犯人の動機がひも付けられ、叙述トリックが形成されています。

本編が作中作であることから、プロローグとエピローグがそれぞれの立ち位置で作中作との相関を担い、のちに明かされる伏線回収の精度を高めています。とりわけ、エピローグで事件の真相に迫っていく島田兄弟の推理談義は、フェア・アンフェアという境界も提示しつつ、作中作と(プロローグとエピローグを含む)本作を両立させています。フェア・アンフェアに言及しているのは書き手の矜持かもしれません。

クローズドサークルの舞台で仕掛けられた見立て殺人

綾辻行人-迷路館の殺人-感想・考察

ギリシャ神話を引用した各部屋の名称と、“作中作中作”の冒頭を描写した見立て殺人。いずれも書き手の趣向が織り込まれた、本作には欠かせない要素となって描写されています。

須崎につづき、清村、林が殺害され、最後に舟丘が殺害されるという見立て殺人の構図。林殺害時のダイイング・メッセージ、舟丘殺害時の密室など、読み手を揺さぶる伏線が随所に張られつつ、作中作だけでも事件の経緯は容疑者・宮垣で一応完結しています。ただ、綾辻作品らしく、本作にはもうひとつ別の衝撃がエピローグに用意されています。

第四章「第一の作品」の須崎殺害について鹿谷が推理する、“犯人の身体から流れ出た血痕を隠蔽する必要があった”という「ミノタウロスの首」の見立て殺人。

これが作中作の第一の殺人であるのと同時に、エピローグで島田勉が指摘しているように、事件の真相究明への転換点となる鍵にもなっています。

「という具合にね、いったん疑ってかかってみると、ある一点を転換のポイントとして、この事件はまったく異なる解釈が可能になってくる。~ 中略 ~」
「その『ある一点』というのは何なんでしょう」
「犯人は何故、須崎昌輔の首を斧で切る必要があったのか」
 島田が云うと、鹿谷は顎の先をゆっくりと撫でながら、
「さすがですね」
と微笑んだ。
「で、その答えは?」
「作中ですでに述べられているとおりさ。現場を汚してしまった自分の血の痕を隠すためだろう」

講談社文庫<新装改訂版> エピローグ P435抜粋

作中作とプロローグ&エピローグの相関

綾辻行人-迷路館の殺人-感想・考察

本作がある意味力作といえる要素が、作中作とプロローグ&エピローグの相関にあります。その相関は書き手の熱量が伝わってくるような力感があります。

前述のとおり、作中作だけでもミステリ作品として完結していますが、エピローグに用意されている真相に迫る推理が本作の肝。

エピローグの地の文で描写されている、“意図して曖昧に描写されているある人物の「性別」”。これが叙述トリックに絡む連続殺人事件の真犯人説となっています。

どうしてこの小説では、ある作中の人物について、故意に読者の難解を招くような記述がなされているのか。
 ~ 中略 ~
「白いスーツでも着こなせば、若い頃は“美青年”で通用しただろうなと思わせる」といったきわどい表現もあるが、この人物の性別に関する描写は総じて、どちらとも取れる曖昧な書き方で済まされているのである。

講談社文庫<新装改訂版> エピローグ P439抜粋

エピローグで語られる物的証拠のない推理は、伏線を回収する役割を担っていることはいうまでもないものの、作中にもあるようにフェア・アンフェアについてかなり意識しているように感じます。

個人的には、「十角館の殺人」ほどの衝撃は得られませんでしたが、本作「迷路館の殺人」は、書き手の趣向と力感あふれるプロットを十分に堪能できる作品です。

written by 空リュウ

迷路館の殺人<新装改訂版> (講談社文庫) 綾辻 行人
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【小説】殊能将之「ハサミ男」を読んだ感想・私見(考察)

殊能将之-ハサミ男

殊能将之デビュー作「ハサミ男」(1999年刊行)。本作は同年第13回メフィスト賞を受賞し、さらに同年「このミステリーがすごい!」の9位にランクインしています。2005年には主演・豊川悦司、麻生久美子で映画化もされました。

本作は叙述トリックの傑作選で必ずといっていいほどピックアップされている一冊。

“わたし”の視点で進行する一人称の章が際立ち、“わたし”のサイコパスな行為が読み手の心理を翻弄します。ハサミ男の犯行を模倣する第三の殺人、その真相を暴くためにシリアルキラーが探偵役をこなすなど、叙述トリック以外の稀有な設定が本作のおもしろさを助長させています。

本作を考察するうえでネタバレは避けられず、以下はあくまで読了前提の私見です。

性別をミスリードさせる叙述トリック「ハサミ男」

作中ですでに二件発生している女子高生広域連続殺人事件。この二つの事件はいずれもハサミ男の犯行であることを“わたし”が明かしていますが、(“わたし”の犯行ではない)第三の殺人事件を“ハサミ男当人が発見する”という件からストーリーが展開されています。

叙述トリックの傑作という肩書きから無意識に身構えてしまいがちですが、まずはタイトルそのものが伏線。察しのいい読み手は、このタイトルからすでに何らかの準備をしているはずです。

プロローグ的な位置づけからはじまる(数字の章の)一人称“わたし”は、ハサミ男の視点です。読み進めるうちに自ずと感じるのが、「“わたし”の性別を明かさない」という点。ここに違和感を抱いてしまうので、おそらく「性別」がこの叙述トリックの肝なのだろうと早々に推察できます。

多重人格の“わたし”が担う探偵役

殊能将之-ハサミ男

精神障害を抱え、幾度も自殺を試みる“わたし”。そしてその内に時おり現れる“医師”。

エピローグを担う27章に、医師に関連する描写がみられますが、この医師は“わたし”の父親を投影した幻覚であると推察できます。

「いかん、ライオス王のお出ましだ。ぼくはあいつが苦手でね。このへんで失礼するよ」
 医師は自分の部屋へ帰っていった。
 すると、不思議なことに、看護婦に連れられて、病室の入口からふたたび医師がやってきた。
 いや、違う。医師にそっくりだが、医師とは別人だった。
 ~ 中略 ~
あまり親に心配をかけるものじゃない、と医師そっくりの男は言った。
 ~ 中略 ~
おまえが母さんのことで、まだこだわりを持っているなら……。

講談社文庫 27 P498抜粋

父親らしき人物との会話として描写されていますが、別人格の意思は、つまり、当人の潜在意識。“わたし”の過去に、家庭内の不和によって、精神障害を引き起こす何からの事象が発生していると推察できます。

多重人格の障害に悩まされる“わたし”は、この医師の“お告げ(潜在意識)”によって第三の殺人の真犯人を追い求めることになります。

第一、第二の殺人事件のシリアルキラー“わたし”が、ほかの誰かが犯したハサミ男(の犯行)の模倣犯を追う探偵役に──。この着想は、スリリングな展開がはじまることを読み手に印象づけることに成功しています。

読み手は、「(一人称の)“わたし”は日高なのか」という点と、「第三の殺人の真犯人が誰なのか」という点の二つの疑念を抱きながら読み進めることになります。

一人称の“わたし”の性別は──

殊能将之-ハサミ男

“わたし”の性別は男なのか、または女なのかについては、一人称の“わたし”の章にいくつかの伏線が張られています。

穿った見方をしなくとも、素直に受けとれば、これはむしろ女ではないかと推察できる部分。

 見れば見るほど、きれいな子だった。
 わたしから見ても美人だと思えるくらいだから、同世代の男子生徒には、さぞかしもてることだろう。
講談社文庫 5 P49抜粋

女性目線の描写と受けとったほうが自然で、逆に日高の目線と考えたほうが違和感があります。そして、伏線ともとれる立ち位置の人物に岡島部長がいます。

 岡島部長はあいかわらず頬づえをついて、窓の外の曇り空をながめていた。わたしが近づくと、視線はそのまま、
「このうっとうしい天気はいつまでつづくんだろうねえ」
と、つぶやくように言った。
 岡島部長は五十代の女性だった。
講談社文庫 2 P21抜粋

“わたし”がバイトしている氷室川出版の編集部岡島部長は女性ですが、この人物も性別を明かさなければ男女どちらともとれる口調が続いています。

プロローグ的な段階で、この人物を女性として立てることで、のちに“わたし”が安永知夏、すなわち女であることを明かしても違和感を覚えない役割を担わせているのかもしれません。

また、週刊アルカナ編集部の黒梅(女性)の言葉も伏線になっています。

 寒風の吹きすさぶ店外に出ると、黒梅はわたしをじろじろ見つめて、
「ねえ、あなた、いつもそんな格好なの?」
 いきなり、そう言った。なんとも、ずけずけとものを言う女だ。
 わたしは自分の服装を見なおした。手編み風セーターにジャケット、ジーンズ、スニーカー。
「そうだけど、変かな」
「まあ、悪くはないけど」
 黒梅はわたしを上から下まで品さだめすると、
「もう少し、おしゃれしたほうがいいんじゃない?」
講談社文庫 14 P233、234抜粋

“わたし”が男でも成立する会話ですが、どちらかというと、女同士の会話と受けとったほうが自然に思える部分です。のちに明かされる、“安永知夏=美人”という設定からも、このときの黒梅の心情は理解できる範疇でしょう。

客観的事実を示す三人称の章に隠された真実

殊能将之-ハサミ男

一人称で描写されているハサミ男の視点の章とは異なり、全十四章から成る本編は、捜査に奔走する警察組織を俯瞰で描写し、客観的事実を示す三人称で進行しています。本編の地の文は、いわゆる“信頼できるはずの描写”です。

ハサミ男が誰であるかを明かさないのは叙述トリックによるものですが、ストーリーの本筋である第三の殺人のトリックは本格ミステリのカテゴリ。

第三の殺人はいったい誰の犯行によるものなのか。

ハサミ男が第三の標的として追っていた女子高生・樽宮由紀子が、他の誰かによって(ハサミ男の犯行であるかのように)偽装工作して殺害され、偶然ハサミ男当人が遺体の第一発見者になるというのが本作のプロット。

ハサミ男の犯行を装って私怨をはらした真犯人が、実は警察組織内部の者、それも指揮をとる側の警視正・堀之内による犯行だったというのは、読み手にインパクトを与えるには十分なトリックです。

求めてしまうのはその相関と動機ですが、樽宮由紀子は複数の男性と関係があって堀之内はその一人、そして動機が恋愛のもつれによる報復というもの。この設定が安易すぎて、個人的にはもの足りなく、やや尻すぼみな印象。

以下はエピローグ的な役割を担う一人称の章のラスト(27章)ですが、堀之内、磯部、安永知夏が対峙するシーンで、堀之内がハサミ男の正体を明かさないまま自決するのは、“安永知夏の次の犯行を仄めかして終えたい”という書き手の意図があるのだろうと推察します。

 彼女は十五、六歳くらいで、きっと老婆の孫なのだろう。髪を後ろで結んで、赤いセーターとキルトスカートがよく似合っていた。丸顔におとなしそうな微笑を浮かべている。
 とても頭のよさそうな子だった。
「きみ、名前はなんていうの?」
 と、わたしは訊ねた。
講談社文庫 27 P501、502抜粋

written by 空リュウ

ハサミ男 (講談社文庫) 殊能 将之
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【小説】アガサ・クリスティ「アクロイド殺し」を読んだ感想・私見(考察)

アガサ・クリスティ-アクロイド殺し

1926年に発表された不朽の名作アガサ・クリスティ「アクロイド殺し」。クリスティ長編作品の6作目、ポアロシリーズとしては3作目の作品です。

本作は後世に多大な影響を及ぼした名著として知られていますが、奇想天外な着想ゆえに、称賛と批判を同時に受けることになった作品でもあります。当時まだテクニックとして認知されていなかった“叙述トリック”を、クリスティ流のアイデアで衝撃のトリックとして成立させています(叙述トリックそのものは本作発表以前に先例あり)。

また作品発表後の二次的な余波もこの作品をさらに世に広めました。

ひとつは「フェア・アンフェア論争」。本作のプロットが奇抜なため、「推理小説としてフェアな要素といえるのか」という一大論争が当時巻き起こっています。アンフェア側の急先鋒S・S・ヴァン・ダインがのちに発表した「ヴァン・ダインの二十則」はあまりにも有名。そしてクリスティの失踪──。

本作の醍醐味、そして何がアンフェアといわれてきたのか、あくまで個人的な見解として、以下は読了前提のネタバレで考察しています。

“クリスティ流” 叙述トリックの名作「アクロイド殺し」

舞台になっているのはイギリスの片田舎キングズ・アボット。この村で資産家のフェラーズ夫人が亡くなったという件から物語が始まります。

わたしと姉のキャロラインのやりとりについて書き進める前に、地元の地理について、多少とも説明しておいた方がいいだろう。わたしたちの村、キングズ・アボットは、イギリスのどこにでもあるような、ありふれた村である。

ハヤカワ文庫 2「キングズ・アボット村の人々」P18抜粋

文脈からもわかるように、全編が一人称で進行していきます。一人称の主は村の医師として日々応診に勤しむシェパード医師。

このように、月曜の夜までの話は、ポアロ自信が語っているも同然だった。彼がシャーロック・ホームズで、わたしはワトスン役を務めた。

同 16「セシル・アクロイド夫人」P245、246抜粋

ポアロシリーズといえば参謀のワトソン役はヘイスティングズ大尉ですが、本作では不在(アルゼンチン在住)。代わりにシェパード医師が進行役としてワトソン役を担っています。

物語としては、「富豪ロジャー・アクロイド刺殺事件」の真相を究明していく過程が描写されていますが、シェパード医師によって語られる登場人物は、各々が個人的な思惑により何らかの秘密を抱え、事実を隠しています。

ポアロシリーズの真骨頂といえば、会話の中から導き出されるポアロの推理。ときおりポアロが発する「灰色の脳細胞」というセリフも、推察することの重要性を推したユーモアのひとつ。それによって明らかにされていく真実は、張り巡らされた人物相関の伏線を徐々にひも解いていきます。

一人称の語り=「全27章の手記」

アガサ・クリスティ-アクロイド殺し

物議をかもしたという点で特筆すべきは、語り手シェパード医師の一人称。

見出しなどで明確に掲示されていないため、読み手としてはシェパード医師の語り(一人称)という見地で物語が進行していると思い込むはずです。しかし、実は本作の地の文そのものがシェパード医師が書き上げた手記だったという設定。

つまり、本作そのものが手記。解説でも述べられていますが、読み手のほとんどはそれに気づかず23章(またはラスト)まで読み進めるでしょう。

ホームズとワトソンの関係、つまり探偵役と進行役(語り手)が存在し、進行役は手記として綴っているというセオリーを承知していれば、本作のそれも見抜けるのかもしれません。

たしかに作中で「書き進める」という描写がありますが、それはシェパード医師の行為を示すものだと思い込むはずです。これは書き手(作者クリスティ)側からすると、狙ったとおりのミスリードということになります。

フェア・アンフェア論争にも直結しますが、全編がシェパード医師の書いた手記ということになると、ディクタフォン(録音機)を使ってアリバイトリックを仕掛け、犯行を隠蔽しようとしている当人が“すべてを書き記すはずがない”という設定もアリということになります。

“信頼できない語り手” シェパード医師

アガサ・クリスティ-アクロイド殺し

現在では類似作品も多いものの、本作が発表された当時は叙述トリックそのものの地位が確立されておらず、侃々諤々の議論がなされたであろうということは容易に想像がつきます。

「一部を曖昧にしたが嘘は書いていない。すべて事実である」という見地も、読み手としては額面通り受け取ることはできず、“信頼できない語り手”という位置づけになります。

地の文に「客観的な事実」が書かれているという保証はなく、探偵役が犯人を突き止める前に、読み手が犯人を推理するための十分な材料が提供されているとはいえません。これらを総合するとアンフェアであるという主張は至極当然です。

ただ、フェア・アンフェアに関わらず、「“アクロイド殺し”は面白い」ということに変わりはありません。フェアに描写すればそれが面白い作品になるのか、という疑問も頭をもたげます。結局のところ、批判されようが論争を巻き起こそうが、面白い作品は評価されてしかるべき。のちに発表されている「オリエント急行の殺人」「ABC殺人事件」よりも「アクロイド殺し」のほうが読後感が強く残ります。

叙述トリックの“コロンブスの卵”は、色あせることなく、後世に語り継がれる名作であるということは疑いのない事実でしょう。

個人的には、“シェパード医師が犯人だったとしたら”という見立てで読み進めたので、“実は全編手記だった”という設定のほうにインパクトを受けた作品です。

written by 空リュウ

アクロイド殺し (ハヤカワ文庫-クリスティー文庫) アガサ・クリスティー
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【小説】綾辻行人「十角館の殺人」を読んだ感想・私見(考察)

綾辻行人-十角館の殺人-感想・考察

1987年に刊行された綾辻行人デビュー作「十角館の殺人」。

本作は当時、“新本格ブーム”なる本格ミステリの先駆けとして多大な影響を及ぼしたといわれています。クローズドサークル(外界との連携が絶たれた状況)の舞台設定で、ミスリード必至の叙述トリックが仕込まれている傑作。

作中でもふれられていますが、本作はアガサ・クリスティー「そして誰もいなくなった」のオマージュ作品です。同作も読むとすれば、順序としては、「そして誰もいなくなった」を読了後、「十角館の殺人」を読むほうがより醍醐味を味わえます。

本作冒頭で以下の献辞があるように、先人に敬意を払っていることは言うまでもありません。

──敬愛すべき全ての先達に捧ぐ──

綾辻行人-十角館の殺人-感想・考察

アガサ・クリスティー「そして誰もいなくなった」は1939年に刊行された作品。

トリックそのものは衝撃を受けるようなものではないものの、クローズドサークルとなった孤島で、マザーグース(伝承童謡)の一つ“10人のインディアン”の見立て殺人が展開されるというプロットが秀逸です。集められた10人にはそれぞれ背負う過去があり、殺人が起きるたびに10体の人形が一つずつ減っていくという演出も不気味さがあって妙味。

80年の時を経ていますが、今もなお愛読されている不朽の名作です。「十角館の殺人」以外にもオマージュ作品として著名な作品が数多く存在し、後世に影響を及ぼし続けている偉大な作品といえます。

以下は、「十角館の殺人」の叙述トリックを推考するため、あくまで読了前提としてネタバレで考察しています。

クローズドサークルの死角をついた叙述トリック「十角館の殺人」

舞台は外界との音信を絶たれた孤島“角島”。本作のクローズドサークルは、K**大学ミステリ研究会のメンバー7人が外界との連絡を絶って角島で7日間を過ごすというもの。

孤島が舞台になっている点は、「そして誰もいなくなった」と同じ設定です。「十角館の殺人」の舞台“角島”は作中で大分県の離島と描写されていますが、この角島のモデルは、大分県大分市に実在する“高島”といわれています。

この孤島“角島”でミステリ研究会のメンバーの身に降りかかるのが見立て殺人。童謡などの掲示はありませんが、“被害者(1~5)”、“探偵”、“殺人犯人”からなる7枚のプレートは、オマージュ作品であることからも不気味さと緊張感を助長するうえで不可欠な要素となっています。

そしてクローズドサークルを掲示された場合、その中に犯人が存在することを疑うのが王道。ただ本作の場合、その範疇でありながらも、トリックの重要な役割を担っているのが“ニックネーム”。そして“島”の章と隔てて描写されている“本土”の章です。それぞれ読み手をミスリードさせる役割を担い、クローズドサークルの死角をついた驚愕のトリックを成立させています。

“ニックネーム”が担うミスリード

綾辻行人-十角館の殺人-感想・考察

本作の叙述トリックで切っても切り離せないのが、メンバー同士をニックネーム(欧米のミステリ作家が由来)で呼び合うという設定。

展開順が肝になるため、まず先の“島”の章で、ミステリ研究会メンバーの本名を明かさないままニックネームのみで展開していき、後の“本土”の章では登場人物の本名を明かして展開しています。これによって、読み手は、ミステリ研究会に携わった人物は“ニックネームで呼び合う”という先入観をもちます。

先入観をもったまま後の章の“本土”を読み進めるため、島田のセリフで追い打ちをかけられたことに違和感を覚えません。

「江南君か。うん、いい名前だ」
組んだ手をそのまま頭の後ろにまわして島田はまたそう云ったが、このとき彼は、江南を「かわみなみ」ではなく「こなん」と発音した。

講談社文庫<新装改訂版> 第二章「一日目・本土」P89抜粋

早々に「江南=コナン(コナン・ドイル)」のイメージをすり込まれているので、その字面から「守須=モリス(モーリス・ルブラン)」と変換するのが自然な流れ。読み手が作家の名前を知っているかどうかは別として、“モリス”に類するニックネームに自動変換させるのが書き手の狙いです。

のちのち明かされますが、角島に渡ったミステリ研究会メンバーの本名(山崎、鈴木、松浦、岩崎、大野、東)と、本土にいるミステリ研究会メンバーの本名(江南、守須)が、いかにも異なるテイストで設定されています。

カタカナのニックネームは本作の重要なプロットではあるものの、偉人風のニックネームで呼び合われるのは、正直なところ個人的には苦痛な設定。本作におけるキラーコンテンツではありますが、ともすると脱落しかねない諸刃の剣にも感じます。

“本土”の章が担うミスリード

綾辻行人-十角館の殺人-感想・考察

本作のプロットのうち、読み手の意識をクローズドサークルからそらせて、驚愕のトリックを成立させる位置づけを担っているのが“本土”の章です。

探偵役の島田と河南を泳がせることで、角島で過去に起きた四重殺人の犯人の影を仄めかし、中村青司生存説や吉川誠一生存説、または中村紅次郎真犯人説をちらつかせています。

相乗して、中村青司を名乗る怪文書も、読み手の意識をそらせる効果を担っています。

これらが本筋でないことはすぐにわかりますが、あくまで可能性という点で、“島”の章でもエラリイが中村青司生存説を訴え始めるという流れをつくっています。

そして“本土”の章が担うもっとも重要な役割は、守須という人物を存在させること。読み手は“本土”の章の展開が何を意味しているのかわからないまま読み進めるため、探偵役の島田と河南の動向に振り回されるはずです。

叙述トリックとしてのインパクトが絶大なぶん犯行の動機に関心が募りますが、この点はやや物足りないというのが率直な印象。動機にも直結する当人同士の関係は作中では伏せられたまま展開され、“八日目”の章で、犯人の独白によって動機と犯行の経緯が語られています。

この独白はいわゆる「そして誰もいなくなった」でいうところの、“壜”に詰めて海に投じられた“犯行手記”。ディテールを明らかにすることで違和感を覚える部分、とりわけ“五日目”の章でアガサが殺害される一幕──が少なからず出てきますが、そこは同作に対する書き手の敬意でしょうか。

また、プロローグとエピローグでは、犯人の(犯行前の)心情と終局の一幕がつづられています。この必要性がいま一つ消化できていませんが、重要なのは「そして誰もいなくなった」と同様に、“ディテールにこだわるのではなく、秀逸なプロットを堪能する”ことなのだろうと思います。

written by 空リュウ

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫) 綾辻 行人
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そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫-クリスティー文庫) アガサ・クリスティー
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【小説】折原一「異人たちの館」を読んだ感想・私見(考察)

折原一-異人たちの館-感想・考察

1993年に書下ろしの単行本として刊行された折原一「異人たちの館」。

本作は、初版の単行本以降、二度文庫化されています。さらに二度目の文庫化から14年の時を経て2016年に三度目の文庫化。文春文庫版のあとがきで著者も語っているように、著者渾身の“マイベスト”でありながら、発行部数は決して多くはないようです。

2018年本屋大賞発掘部門の「超発掘本!」に選ばれたことからも、本作「異人たちの館」の知名度はさらに上がりました。

不朽の名作として名高い本作の叙述トリックは、いくつかの要素が織り交ぜられ、ミスリードを誘発する精巧なプロットのうえに成り立っています。作中作によって本編の現在と虚構の境界を混濁させ、さらに過去実際に起きた事件のアレンジ版を描くことで、読み手が先入観を抱くように巧妙に導いています。

以下はあくまで私見ですが、本作の醍醐味を突き詰めるべく、読了前提としてネタバレで考察しています。

プロットの緻密さが際立つ多重文体、叙述トリックの名作「異人たちの館」

本作は、行方不明になった小松原淳の伝記を残そうと、淳の母・妙子が島崎潤一にゴーストライティングを依頼したことが起点となって展開されています。

主人公役のフリーライター・島崎潤一は、純文学の新人賞を受賞したこと以外特筆するものがない、冴えない人物。その一方で、依頼者側の小松原家の面々はどれも特異な人物像で描かれています。小松原家の人物を際立たせるために、対比として島崎潤一の人物像をごくごく普通に印象づけているかのような描写。小松原家の中でも、とりわけ小松原妙子は、読み手に不気味な人物として印象を与えます。

折原一-異人たちの館-感想・考察

小松原一家を含む全体の人物相関からも推察できますが、本作を読み終えて感じることの一つに、相当な時間を費やしたに違いないプロットの緻密さがあります。練りに練られた構成であることを、人物相関に張られている伏線の数と、頻出するテキスト(多重文体)の量が物語っています。子連れ同士の結婚でありながら実は血のつながった関係であることや、父・譲司の正体、淳と島崎の相関など、人物相関にもあらゆる要素が詰め込まれています。作中では、とにかく地の文以外のテキストが多く、独白、短編小説、年譜、関係者インタビューなど、頭の整理がつかないうちに、次から次へと新手の叙述が読み手を揺さぶってきます。

インパクトを与えるもう一つの要素が、過去に実際起こった事件のアレンジ版を作中に登場させている点。大雪山SOS遭難事件と東京埼玉・幼女連続殺人事件を彷彿とさせるストーリーは、現実の過去にタイムトリップさせる十分な効果があります。とりわけ、樹海遭難者の“HELP”文字、幼女連続殺人犯を匂わせる“今田勇子”という偽名は、現実世界の過去とも時空をつなげる効果を担っています。

折原一-異人たちの館-感想・考察

さらに、作中の過去と現在を混濁させる別の要因として“異人”の存在があります。関係者インタビューから浮かび上がる異人が、本編の現在にも存在することから、その正体が誰なのか、読み手は惑乱し、揺さぶられ続けます。ドイツ人貿易商が建てた洋館という設定にも不気味さが漂っていますが、その地下室で異人が登場するシーンなどはホラーに近い描写で綴られ、この人物を強烈な印象として残すことにも成功しています。

現在と虚構の境界を混濁させる多重文体

折原一-異人たちの館-感想・考察

独白以外にも頻出しているテキストの数々。中でも小松原淳が幼少期に書いたとされる短編小説は、作中で実際に起きた事故(事件)を綴っているかのように読み手の先入観を導いていきます。読み手は、この内容が事実なのか虚構なのか分からないまま、次から次に登場する短編小説の描写に惑わされます。

多重文体の一つである小松原淳の関係者へのインタビューも、浮かび上がってくる過去を謎多く描いています。淳の妹・ユキの周辺で起きた幼女連続殺人事件、淳の周辺で起きている数々の不審死、不審死に関与しているかのような異人の存在、地下室で目撃された黒い影、徐々に異変を感じさせはじめる淳の言動など、あらゆる手法で伏線を張ってきます。これらの伏線については、あえて謎解きをするよりも、むしろ著者の思惑に身を任せて騙されるほうが回収の醍醐味を味わえます。

そして、本作の挿入歌のように所々で登場する童謡・赤い靴の歌詞“異人さんに連れられて”。小松原妙子が口ずさみ、異人の存在がちらつく要所でもテキストがインサートされています。BGM的な役割でも使われていることから、この旋律が効果的。本作の多重文体の中で、このテキスト(歌詞)だけ特異な用途で使われていますが、著者の巧みな技法の一つとして印象に残ります。

独白(モノローグ)が担う叙述トリック

折原一-異人たちの館-感想・考察

全4章、計600ページ超の長編ストーリーに、計10回挿入されている独白。冒頭モノローグ1の文中に「こまつばら」という独白が記述されていることから、読み手はこの独白が小松原淳のものであることを連想します。

本編で小松原淳が過去に西湖界隈の樹海を訪れていることからも、この独白は小松原淳の独白であると読み手にミスリードさせる役割を担っています。

読み手としては、おそらくこの独白はラストでつながってくるのであろうという推測が立ちますが、一方で読み進めていくうちに、この独白の人物は小松原淳ではなく島崎潤一ではないか、という憶測も頭をよぎります。

ラストまでこの独白は小松原淳のものだと思い込んで読み進められた場合は、それなりの衝撃を得られるはずです。もしラストにたどり着く前に、この独白が島崎潤一のものであると気づいた場合でも、本作のプロットの精巧さに感服するのではないでしょうか。

written by 空リュウ

異人たちの館 (文春文庫) 折原 一
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【小説】真梨幸子「5人のジュンコ」エピソード0を考察

真梨幸子-5人のジュンコ-考察

イヤミス作品として名高い真梨幸子「5人のジュンコ」(2014年刊行)。

2015年に、WOWOW連続ドラマW「5人のジュンコ」(主演・松雪泰子)で映像化もされています。

本作にふれて読み手がまず最初に感じることは、登場する人物が見事なまでに他者を蔑んでいるという点。そのネガティブな視点の描写は、読み手に不快感を増幅させるのに十分な効果があり、それがイヤミス作品として名高い所以でもあります。

そして、本作のテーマとして描かれている「バタフライ効果(エフェクト)」は、5人のジュンコを不幸へ誘う負の連鎖。

※些細なことがあることをきっかけに後に大きな影響を及ぼす連鎖的な現象。

連続不審死事件の被疑者(容疑者)・佐竹純子から端を発し、「ジュンコ」という名で連鎖する人間の不幸を陰鬱とした表現で描ききっています。

以下は、エピソード0およびエピソード0に連鎖する各エピソードを検証するため、ネタバレ前提で考察しています。

バタフライ効果(エフェクト)で連鎖する「5人のジュンコ」

主に5人のジュンコを負の連鎖へ誘っているのは、佐竹純子が被疑者となっている連続不審死事件ですが、実際は5人が直接的に相関しているわけではありません。バタフライ効果をテーマとしていることからも間接的な相関となっています。

展開の中心になっているのは、佐竹純子が起こしたとされる連続不審死事件を追っているノンフィクション作家・アシスタントの田辺絢子。

田辺絢子は取材を通じて篠田淳子と守川美香(諄子の娘)に接触していますが、唯一、福留順子だけが5人のジュンコの中でもっとも遠いところに位置し、バタフライ効果の末端の役割を担っています。

これは、ある意味、バタフライ効果、つまり、この世の中のすべてはなにかしら影響しあっている

福留順子自身に、作中でバタフライ効果を想起させることで、5人のジュンコの連鎖を暗示しています。

エピソード5 佐竹純子と篠田淳子

真梨幸子-5人のジュンコ-感想・考察

エピソード0を考察するうえで、重要になってくるのが佐竹純子と篠田淳子の関係性です。

以下は、いずれもエピソード5・佐竹純子の章で、佐竹純子が語っているセリフ。

“篠田淳子のことも、ちゃんと調べた?”

”私の腹心の友。私とは一心同体だった子よ。あの子に影響されて、今の私があるといってもいい。だから、篠田淳子のことを調べれば、おのずと私のことも分かるはず”

作中では、取材を進める田辺絢子の視点で、「佐竹純子と篠田淳子は、佐竹純子を主とし、主従関係にあったのでは」と読み手をリードしています。

田辺絢子が取材をした同級生のミツエも「元凶は佐竹純子」と語っているように、佐竹純子はひと癖ある人物であることは間違いないようですが、エピソード0で明かされる篠田淳子の実像を考察すると、ミツエの篠田淳子評と田辺絢子の見解は、いずれも見当違いという可能性が高くなります。

エピソード1 篠田淳子の独白

真梨幸子-5人のジュンコ-感想・考察

エピソード1は篠田淳子の章ですが、本作で唯一、篠田淳子の章だけがすべて一人称の視点で語られています。

つまり、相手のセリフこそあるものの、エピソード1で描写されている地の文は、ほぼ篠田淳子の独白です。

エピソード1の篠田淳子の独白は、佐竹純子という人物に特定の色をつけさせる役割を担っていると考えられます。

そのため、エピソード1の独白は、篠田淳子が客観的な事実を語っているとは限らず、すべてを鵜呑みにすることはできません。どこかで脚色している可能性があり、客観的な事実は別のところにあるのかもしれません。特に過去についての独白は、すべて自己都合の主張という可能性さえあります。いわゆる、「信頼できない語り手」です。

そう考えると、ピソード5で佐竹純子が発した“あの子に影響されて、今の私があるといってもいい”という告白のほうが真実味があります。仮に、“篠田淳子のことを調べれば、おのずと私のことも分かるはず”という助言の裏をとる描写があったとしたら、それが真実なのではないか、と考えます。

エピソード0 3つめの殺人事件

真梨幸子-5人のジュンコ-感想・考察

エピソード0は、エピソード1と同様、地の文が一人称の独白形式で語られています。

エピソード0を考察するうえで切り離せないのが、エピソード3の守川正志との相関(諄子の息子)。

田辺絢子は取材の過程で、守川正志が佐竹純子に殺害された可能性を追っていますが、これは結果的に誤った推察となっています。

エピソード5の佐竹純子の章で、守川正志殺害の被疑者となっている大野美登里も初公判の冒頭陳述でこれを否定し、真実を知っているであろう佐竹純子も同じく否定しています。

これによって、守川正志殺害の事件は、佐竹純子が被疑者になっている伊豆連続不審死事件、大野美登里が被疑者になっている守川茂(諄子の夫)・美香殺害事件とは別の事件とみなせます。

そして、エピソード0で描写されている佐竹純子の声と思われるセリフによって、守川正志を殺害したのは篠田淳子であることが推察できます。

また、複数の男性から金銭を搾取したのは篠田淳子であることが暗示されていることからも、本作でフィクサーとなっているのは篠田淳子ということがうかがえます。

written by 空リュウ

ドラマ-リバース-湊かなえ-藤原竜也-感想-第1話関連記事:【連続ドラマW】「5人のジュンコ」を観た私見・感想


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Tc エンタテインメント

【小説】貫井徳郎「慟哭」の叙述トリックを考察

貫井徳郎-慟哭-叙述トリック-考察

1993年に刊行された傑作ミステリ貫井徳郎「慟哭」。

本作は同作家のデビュー作であり、代表作のひとつにも推される名作です。同作家特有の重厚な描写は、デビュー作でその礎を築いています。

プロットも秀逸。連続少女誘拐事件を背景に、当該事件の陣頭指揮を執る警視庁捜査一課長・佐伯。心の隙間を埋めるべく新興宗教に救いを求める“彼”・松本。この二者の視点を中心とし、それぞれの章でストーリーが展開されています。

本作はミスリードを誘う叙述トリック作品です。その叙述トリックを検証するため、以下は読了前提としてネタバレで考察しています。

時系列に潜むミスリード「慟哭」の叙述トリック

奇数章で描写される“彼”・松本の心情、偶数章で展開していく警察捜査本部の俯瞰。偶数章はいうまでもなく佐伯を中心として描かれています。

偶数章が本作の軸となって進んでいくため、一見、奇数章は本編とはかけ離れたストーリーのように感じます。読み進めていくうちに、新興宗教に没頭していく松本はどこで本編に交わってくるのか、という疑念が頭をもたげます。

続発する少女誘拐事件の時系列は──

貫井徳郎-慟哭-叙述トリック-考察

計7人もの少女が消息を絶った連続誘拐事件。

佐伯の章と松本の章でそれぞれ描写されていることもあり、同時期に事件が発生しているかのように誤認してしまいがち。

しかし、作中でも掲示されていますが、時系列でみると奇数章と偶数章は同時期ではありません。正確な時系列は、偶数章の佐伯編が先であり、奇数章の松本編が後です。

この時系列の差異が、本作の叙述トリックの根幹になっているため、これによって自ずとみえてくるものがあります。

新興宗教に執心する信者としての“松本”

貫井徳郎-慟哭-叙述トリック-考察

娘を失ったことによって空虚な精神状態となり、心に開いた穴を埋めるべく新興宗教に執心していく“彼”・松本の視点で、奇数章は描写されています。

本作の本編のように映る偶数章と交互に読み進める奇数章は、どこかスピンオフのような、奇異な印象を読み手に与えています。

娘を亡くした正体不明の松本という人物が、ついには黒魔術を盲信し、依代として生身の身体を求めて少女を次々と殺害していくさまは、偶数章で続発している事件の犯人を連想させます。しかし、どうにも辻褄が合いません。

そして、早い段階で頭をよぎる「彼(松本)は佐伯ではないか」という憶測も、時系列の差異によって読み手に混乱を生じさせます。

いずれにおいても、時系列の差異に気づかず、先入観で同時進行のストーリーとして読み進めているうちは、きっちりミスリードしていることになります。

事件解決につとめる捜査一課長としての“佐伯”

貫井徳郎-慟哭-叙述トリック-考察

偶数章の佐伯編は、警視庁捜査一課長という立場から、連続少女誘拐事件の被疑者検挙に尽力する一連の俯瞰が描写されています。

時系列で先の偶数章において、佐伯は捜査する側の人間。三件の連続少女誘拐事件を追いかけている最中、自らの娘が4人目の犠牲者となってしまうシーンが偶数章のラストです。

時系列でいう、「偶数章のラスト以降、奇数章の冒頭まで」の空白の期間は作中で描写されていません。この空白の期間に変化があったと想定されることは、「佐伯が辞職し、姓を旧姓(松本)に戻した」ということでしょう。

これらのことから構成がわかりますが、時系列で先になっている偶数章の連続少女誘拐事件と、時系列で後になっている奇数章の連続誘拐事件はまったく別の事件であり、被疑者も異なります。つまり、本作は、時系列も被疑者も異なる、まったく別の二つの事件を描いた作品です。

以下は推測にすぎませんが、著者は、意図的に「松本=佐伯」という連想を早い段階で読み手に意識させているのでは。叙述トリックの伏線もあからさまに掲示しているところからも、ミスリードを誘ってミステリとして成立させつつも、メッセージは別にあるのではないでしょうか。

それは、捜査一課の刑事・丘本の分析力、捜査一課長・佐伯の洞察力、娘を奪われた父・松本の慟哭などの重厚な描写が、本作の核心を物語っているのかもしれません。

written by 空リュウ

慟哭 (創元推理文庫) 貫井 徳郎
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