【小説】真保裕一「覇王の番人」を読んだ感想・私見(考察)

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真保裕一-覇王の番人-感想・考察

2008年に刊行された真保裕一「覇王の番人」。

真保作品は「ホワイトアウト」「奪取」「ボーダーライン」などが著名ですが、2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放送によって、本能寺の変に関する作品にも脚光が当たりました。

本作もその一つ。

いうまでもなく明智光秀を主人公として描かれており、“なぜ光秀は信長に背いたのか”という解き明かすことができない謎に一石を投じた意欲作でもあります。

数ある通説の中でも、野望説、怨恨説、暴走阻止説、黒幕説あたりはメジャーな通説として広く知られていますが、本作でも著者独自の見解をアレンジして醍醐味のある構成を成立させています。

本作の考察にあたり、史実との関連からも、本能寺の変に至る経緯を回避することはできず、以下はネタバレを含む表現になっています。

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明智光秀の人間性に迫る傑作「覇王の番人」

本作は、とある僧侶の語り(回想)という形式でストーリーが展開していきます。

一連の展開は二者の視点から描写され、一人は光秀、もう一人は光秀が抱える忍び・小平太の視点という特異なプロットで形成されています。

光秀の視点がいわゆる史実に沿った展開であるのに対し、小平太の視点は忍びの世界観らしく極めてスリリングな描写が続きます。上下巻1000ページに及ぶ長編ですが、小平太の章がスピーディーであるため、ある程度のリズムで読み込めます。

謎多き武将として名高い明智光秀ですが、その名が広く知れ渡ることになり、結果として三日天下という謂れに至ったのも、すべては織田信長という異端児に仕えたことに始まります。

本作では光秀の前半生の一部として、斎藤道三に給仕していた時代から展開されていますが、とりわけ著者の光秀に対する思いが伝わってくるのは、その人間性に関する描写です。

謀反という行為そのものから、一般的に「明智光秀=ヒール(悪役)」というイメージがつきがちですが、本能寺の変の研究が進むにつれ、光秀の人間性について見直される傾向にあります。

本作でのそれは、“己の信念に実直で慈悲深い”人物像。全体を通して著者が人間性の描写に腐心していることが窺えます。光秀に仕える忍び・小平太の視点から描写することで、光秀の人格がより浮かび上がる構図になっています。

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覇王・織田信長の光秀に対する信頼

真保裕一-覇王の番人-感想・考察

光秀の前半生に不明な部分があるため、通説(1528年生)をもとにすると、光秀が信長に仕えた時点ですでに40という年齢に達していました。光秀の6つ下である信長は当時34。

光秀が享年55歳といわれているので、信長に仕えて約15年という歳月が流れたことになります。

文化人でもあり、朝廷とのパイプ役も担っていた光秀は、粗野な織田家臣団の中でもとりわけ異彩を放っていた武将であることは明らかです。

将軍・足利義昭を信長に担がせて戦乱の世を切り開いた光秀の慧眼、外様でありながら光秀の才能を評価して重用した信長の手腕、多少の意見の相違があったとしても、ベクトルの方向が同じだったことで二人は共鳴したといえます。

作中で光秀が信長に進言することは度々あります。比叡山焼き討ちの際も信長を諫めようと一度は説得に試みます。しかし、頑として曲げようとしない信長の命令に結局は従い、忠実に武功をあげ信長から称賛されています。

信長も光秀の性格は織り込み済みだったと推測します。自らの信念に相反する場合、必ず一言ある人物だが、絶対の命令には忠実に従い、確実に成果をあげる有能な家臣であることを。

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“中国大返し”に見る秀吉の才

真保裕一-覇王の番人-感想・考察

備中高松城(現岡山市)で毛利陣営と対峙していた豊臣秀吉は、本能寺の変で信長が襲撃されたれたと知るや、即座に毛利側と講和し、光秀討伐のため決戦の地・山崎(現長岡京市付近)まで急行しました。その距離約230kmともいわれています(中国大返し)。

3万強もの秀吉軍が、わずか10日で京まで駆けつけるとは、さすがの光秀も予想だにしなかったはずです。

太閤記などに記述がある、“光秀が放った密使を捕えた”という逸話が仮に事実だとすれば、秀吉は常日頃から情報戦には長けていたことが類推できます。

本作でも本能寺の変に際し、各方面に放った光秀の忍びがことごとく帰還し得なかったことが描写されており、これは光秀の動向を常に警戒している者がいたことを示唆しています。

機を見るに敏。秀吉の“中国大返し”はまさにそれであり、のちの天下人たる所以でもあります。

一方、本能寺の変以降、光秀の対応は後手にまわっていると言わざるを得ません。与力であった細川藤孝、筒井順慶、高山右近などを組み入れることができず、一世一代の大博打を打った割に、あれだけの実力者でありながら事前にほとんど何の根回しもしていなかったことが露見しています。

光秀の青写真は脆くも崩れ、かたや筒井順慶、高山右近などを味方につけ、細川藤孝を静観させて山崎の合戦に挑んだ秀吉に、時流が味方したということを史実が示しています。

本作の醍醐味は、これら一連の裏を描いた秀逸なストーリーテリングにあります。「本能寺の変によって誰が最も得をしたか」という見地に立てば、フィクションとしては魅力的な作品であることは言うまでもありません。間違いなく著者の筆力を十分に堪能できる必読の一冊に仕上げられています。

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補足:諸説から導かれるもの

真保裕一-覇王の番人-感想・考察

本作を読了後、本編の構成をいったん切り離したうえで、本能寺の変の諸説について以下私見で考察。

まず、光秀に天下を取る意志があったかどうかの「野望説」。そもそもこの時代は生半可な気構えでは生き残れない時世。いわば、やるかやられるかの時代。光秀自身に野望があったかどうかは計り知れないが、元々は天下を取るというよりは、どちらかというと室町幕府の再興ために動いていたのではないか。

結果、将軍・義昭と袂を分かつことになったので、野望を抱いたかどうかという点ではこれ以降の心境の変化次第。可能性はゼロではないが、野望だけで変を起こしたと決めつけるのは短絡的な印象。

次に「怨恨説」。まことしやかに伝えられる、徳川家康の饗応(接待)役を光秀が任されたときの逸話。用意した魚が腐っていて信長が激怒し、光秀はその任を解かれ、中国へ出兵(秀吉の援軍)を命じられたというもの。

この逸話が引き金になったというのもにわかには信じられず。仮に怨恨があったとしても、いろんな要因が積もり積もっての話ではないか。そもそも毛利と対峙している秀吉の援軍は既定路線であり、切り離して考えたほうが自然。

少なくとも上記2つの説より有力と思われるものが「暴走阻止説」。

鬼門だった武田勢を家康が撃破したことにより、天下統一が目前に迫った信長。この頃からより一層自我が強くなっていったとの逸話。自己神格化、大陸への出兵など、光秀が諫めても聞く耳をもたないほど暴走モードに突入していた嫌いがある。

天下泰平を望む光秀と、天下統一後のその先まで掲げる信長。ベクトルは同じ方向を向いていると思っていたものの、その大きさの違いに気づいたとき、すでに両者の間に埋めることのできない深い溝が出来ていたとすれば、光秀が何らかの決意を固める可能性はあったのではないか。

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また、より有力との見方があるのが「四国説」。

2014年に発見された「石谷家文書」の中から、光秀の家臣・斎藤利三と土佐の長宗我部元親の膨大な手紙のやりとりが見つかったことにより熱を帯びたもの(斎藤利三と長宗我部元親は縁戚関係)。

もともと信長と元親は友好的な関係にあり、光秀がその調整役。しかし、阿波の三好康長が信長に帰順してからはその関係性も暗雲。友好関係から一転、敵対関係(長宗我部討伐)となったことは光秀にとって危急の事態であり、光秀の面目は丸つぶれ。それまでの努力がすべて水の泡になったことで、何らかの感情が芽生えてもおかしくはない。

くわえて、織田家臣団No.2のポジションを争う秀吉が三好康長と縁戚関係を結んだことも少なからず影響しているのではないか。毛利水軍と渡り合える三好水軍を抱き込んだことで、信長が「光秀-元親」ラインより「秀吉-康長」ラインに重きを置いたと光秀が察したとしたらどうか。このとき、佐久間信盛のことが脳裏をよぎり、明日は我が身と先読みした可能性も。

いずれの説もこれが直接の原因だというには何か足りないような印象だが、これらがすべて事実だとすると、光秀が「もう後がない」と判断してもおかしくはない。

当時畿内の織田軍は手薄な状態。信長もわずかな供だけを従え、さらに信忠までも揃っているとなると、信長・信忠父子を討つという視点に立てば、千載一遇の大チャンスということになる。結果が物語るように、事前の根回しなどは一切なく、とにかく大事を成し遂げるということだけに専念した結果であることは想像に難くない。

ただ一つ。

最も信頼していたであろう細川藤孝・忠興父子の追従がないと分かったときの光秀の胸中やいかに──。

written by 空リュウ

覇王の番人(上) (講談社文庫) 真保 裕一
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覇王の番人(下) (講談社文庫) 真保 裕一
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