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1992年に刊行された我孫子武丸「殺戮にいたる病」(新装版2017年刊行)。
本作は叙述トリックの傑作として必ず挙げられるほど名高い作品です。
本作の叙述トリックは巧妙なプロットをもとに構成されており、ミスリードしたままラストまで読み進めることは必至。そして、真相が明かされた瞬間、おそらく思考は停止するでしょう。
また本作を語るうえで避けられないのが、サイコキラーが次から次へと猟奇的殺人に手を染めていく過程で、その描写があまりにグロテスクなこと。叙述トリック、グロ描写、両面においてかなりの衝撃を受ける作品であることは間違いありません。
以下は、「殺戮にいたる病」の叙述トリックを推考するため、あくまで読了前提としてネタバレで考察しています。
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巧妙に人物誤認のミスリードを誘う傑作「殺戮にいたる病」
本作の構成として、蒲生稔、蒲生雅子、樋口の三者視点でストーリーが展開されていますが、このうち稔視点と雅子視点の相関が叙述トリックの肝となっています。
そのうち稔の人物像については、冒頭にエピローグを挿入し、稔=殺人犯である事実を明かしたうえでサイコパスな雰囲気を漂わせています。本作の心臓ともいうべき稔という人物を、とりわけ特異な存在として読み手に印象づけようとする作為がうかがえます。
ほとんどの読み手は、第一章の雅子視点の描写によって、冒頭から「蒲生稔=雅子の息子」とミスリードするはずです。ここに本作の叙述トリックである人物誤認トリックが仕掛けられています。
樋口視点のパートは全体を俯瞰する役割を担っているので、本作の叙述トリックとなっている蒲生家の人物誤認とは直接関係していません。
蒲生家の人物誤認(1) 誤「稔=息子」 / 正「稔=夫」
前述のとおり、本作で読み手がミスリードする人物誤認トリック、それは「稔=雅子の息子」という先入観。これが、正しくは「稔=雅子の夫」です。
読み手の多くは稔=大学生と誤認しますが、稔が大学関係者であることをほのめかしている伏線は作中にいくつか張られています。
稔が試験のために大学へ出かけたのが昼食を終えてからだったので、雅子は二時頃になって息子の部屋へ入った。
講談社文庫 新装版 第二章 3 二月・雅子 P51抜粋
人物誤認のミスリードをしている場合、“大学生の息子が大学へ出かけたあと、雅子は息子の部屋へ入った”と解釈するはずです。作中の事実は、“大学助教授の夫・稔が大学へ出かけたあと、雅子は息子の部屋へ入った”です。
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「稔さん。大学はどうしたの?」
「……ちょっと熱っぽいから。どうせ授業は一つしかなかったし。前期は皆勤した講義だしね、一回くらい休講しても構わないさ」講談社文庫 新装版 第三章 2 前年~一月・稔 P70抜粋
同じく人物誤認のミスリードでこの会話を解釈すると、“雅子”と“大学生の稔(息子)”の会話になりますが、実際は“容子(稔の母)”と“大学助教授の稔(雅子の夫)”の会話です。学生の側からも解釈できる内容ですが、“休講する”という立ち位置は教鞭をとる側の人間であることをほのめかしています。
「オジンってのを訂正したら、考えてやってもいい」
「分かったわ──お・じ・さ・ま」
彼は思わず吹き出した。面白い娘だ。講談社文庫 新装版 第三章 2 前年~一月・稔 P78抜粋
おそらく多くの読み手がここで違和感を覚えるはずです。ミスリードしている場合、少女から見れば大学生の稔はオッサンというという見立てに不自然さはありません。しかし、大学助教授の稔は43歳なので、少女の発した言葉はきわめて自然といえます。ミスリードに気づくかどうかは別として、この描写は伏線ではないかと推察する読み手は少なからずいるはずです。
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蒲生家の人物誤認(2) 誤「母=雅子」 / 正「母=容子」
雅子視点のパートは、“稔=雅子の息子”という人物誤認のミスリード描写が主となっていますが、それとは別に、“母=義母(容子)”の存在をほのめかす伏線もいくつか存在します。
そこに違和感を覚えれば、人物を誤認していることに気づけるかもしれません。
夫の給料は、贅沢を言わないかぎり、彼女が働きに出る必要のないほどはあったし、彼がもともと両親と住んでいた一軒家も、五年前に義父が他界してからは夫の名義となっている。
講談社文庫 新装版 第一章 1 二月・雅子 P12抜粋
雅子視点で夫の両親との同居について描写されていることから、義父の他界が掲示されているものの、義母については明示されていません。これはつまり、義母は存命で同居していることを意味します。
母と娘と一緒に作ったおせちを食べ、年賀状を見たりテレビを見たりしているうちにもう夕食の時間だ。
講談社文庫 新装版 第四章 3 二月・雅子 P114抜粋
三人称描写として見過ごしがちですが、この一文は雅子視点の伏線です。「母と娘と」という描写は、雅子視点からみると、「義母・容子」と「娘・愛」と“三人でおせちを作った”ということになります。
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雅子はみんなが揃ったある日の夕食で、まず娘の愛に、それとなく旅行の計画を持ち出した。
「ねえ、愛ちゃん。温泉なんか、行きたいわねえ」
「そうねえ」と娘はさほど乗り気でもなさそうな返事。
「お母さんと行けばいい」とむしゃむしゃご飯を噛みながら夫が口を挟む。講談社文庫 新装版 第五章 3 二月・雅子 P146抜粋
一見、夫が娘に投げかけた言葉のようにみえますが、実際は夫が妻に対して投げかけた言葉。夫視点の“お母さん”は、同居している「実母・容子」を指すことになります。
この人物誤認トリックを仕掛けるために、ラストまで明かされない人物名が二人存在します。それが、「実母・容子」と「長男・信一」です。
蒲生家の人物誤認(3) 「息子=長男・信一」
三者視点のうち、稔視点のパートのみ時系列が先になっています。これは雅子が息子(長男・信一)に対して不審を抱いていることを描写し、読み手をミスリードさせるためのプロットによるもの。
長男・信一は、(時系列が先の)稔の所業に気づき、独自に追跡をはじめています。雅子視点のパートは、この信一の一連の追跡や仕草に対して雅子が疑惑を抱いているという役割を担い、巧妙にミスリードを誘っています。
長男・信一の部屋にあった黒いビニール袋や8ミリビデオは、いずれも信一が夫・稔の所業を追跡して発見したものです。
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「おい! その人に見せてやってくれ」野本が声をかけると、担架を運んでいた男達は立ち止まり、死体を覆っていた毛布をめくって見せた。女は倒れこむように担架にしがみつくと、再び大声で泣き始めた。
樋口は後ろから近づき、女の肩に手をかけると、訊ねた。
「……あんたの、息子さんなんだね?」
返事はなかったが、女は何度も頷いているようだった。講談社文庫 新装版 第十章 10 二十九日午後十一時二十五分・樋口 P340抜粋
ラストの章の樋口視点のパートで描写される、殺害された息子というのは、つまり長男・信一です。ミスリードしている読み手は、“雅子の息子である稔は逃亡している”と人物誤認しているので、混乱をきたしているはずです。
いうまでもなく、ミスリードしている場合、本作ラストの“朝刊一面トップ”のテキストによってすべてを察することになります。しかし、前述のとおり、おそらく何がどうなっているのか理解できないまましばらく思考は停止するでしょう。そして人物誤認トリックに気づいた瞬間、そのミスリード感に衝撃を受けるはずです。
人物誤認していたイメージをリセットするためには、「稔=夫」「息子=信一」「母(お母さん)=容子」をふまえて再読すれば、すべて消化できるでしょう。そして同時に本作のプロットの精巧さにも驚嘆するはずです。
written by 空リュウ
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