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1993年に刊行された傑作ミステリ貫井徳郎「慟哭」。
本作は同作家のデビュー作であり、代表作のひとつにも推される名作です。同作家特有の重厚な描写は、デビュー作でその礎を築いています。
プロットも秀逸。連続少女誘拐事件を背景に、当該事件の陣頭指揮を執る警視庁捜査一課長・佐伯。心の隙間を埋めるべく新興宗教に救いを求める“彼”・松本。この二者の視点を中心とし、それぞれの章でストーリーが展開されています。
本作はミスリードを誘う叙述トリック作品です。その叙述トリックを検証するため、以下は読了前提としてネタバレで考察しています。
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時系列に潜むミスリード「慟哭」の叙述トリック
奇数章で描写される“彼”・松本の心情、偶数章で展開していく警察捜査本部の俯瞰。偶数章はいうまでもなく佐伯を中心として描かれています。
偶数章が本作の軸となって進んでいくため、一見、奇数章は本編とはかけ離れたストーリーのように感じます。読み進めていくうちに、新興宗教に没頭していく松本はどこで本編に交わってくるのか、という疑念が頭をもたげます。
続発する少女誘拐事件の時系列は──
計7人もの少女が消息を絶った連続誘拐事件。
佐伯の章と松本の章でそれぞれ描写されていることもあり、同時期に事件が発生しているかのように誤認してしまいがち。
しかし、作中でも掲示されていますが、時系列でみると奇数章と偶数章は同時期ではありません。正確な時系列は、偶数章の佐伯編が先であり、奇数章の松本編が後です。
この時系列の差異が、本作の叙述トリックの根幹になっているため、これによって自ずとみえてくるものがあります。
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新興宗教に執心する信者としての“松本”
娘を失ったことによって空虚な精神状態となり、心に開いた穴を埋めるべく新興宗教に執心していく“彼”・松本の視点で、奇数章は描写されています。
本作の本編のように映る偶数章と交互に読み進める奇数章は、どこかスピンオフのような、奇異な印象を読み手に与えています。
娘を亡くした正体不明の松本という人物が、ついには黒魔術を盲信し、依代として生身の身体を求めて少女を次々と殺害していくさまは、偶数章で続発している事件の犯人を連想させます。しかし、どうにも辻褄が合いません。
そして、早い段階で頭をよぎる「彼(松本)は佐伯ではないか」という憶測も、時系列の差異によって読み手に混乱を生じさせます。
いずれにおいても、時系列の差異に気づかず、先入観で同時進行のストーリーとして読み進めているうちは、きっちりミスリードしていることになります。
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事件解決につとめる捜査一課長としての“佐伯”
偶数章の佐伯編は、警視庁捜査一課長という立場から、連続少女誘拐事件の被疑者検挙に尽力する一連の俯瞰が描写されています。
時系列で先の偶数章において、佐伯は捜査する側の人間。三件の連続少女誘拐事件を追いかけている最中、自らの娘が4人目の犠牲者となってしまうシーンが偶数章のラストです。
時系列でいう、「偶数章のラスト以降、奇数章の冒頭まで」の空白の期間は作中で描写されていません。この空白の期間に変化があったと想定されることは、「佐伯が辞職し、姓を旧姓(松本)に戻した」ということでしょう。
これらのことから構成がわかりますが、時系列で先になっている偶数章の連続少女誘拐事件と、時系列で後になっている奇数章の連続誘拐事件はまったく別の事件であり、被疑者も異なります。つまり、本作は、時系列も被疑者も異なる、まったく別の二つの事件を描いた作品です。
以下は推測にすぎませんが、著者は、意図的に「松本=佐伯」という連想を早い段階で読み手に意識させているのでは。叙述トリックの伏線もあからさまに掲示しているところからも、ミスリードを誘ってミステリとして成立させつつも、メッセージは別にあるのではないでしょうか。
それは、捜査一課の刑事・丘本の分析力、捜査一課長・佐伯の洞察力、娘を奪われた父・松本の慟哭などの重厚な描写が、本作の核心を物語っているのかもしれません。
written by 空リュウ
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